「クローズドボドゲフリマin川崎2015」振り返り

もう3ヶ月前の話になりますが、フリーマーケットの主催をしました。(経緯や当日についての記事

やりっ放しというのもなんだかなとか、もし他にもボドゲフリマやろうとしてる人に参考になればとか思いちょっとだらだらっと書いてみます。この振り返り記事を書くにあたり、参加いただいた方に感想をお聞きしたので、それも参考にしつつで。

※なんか思ったよりも長くなったので、頭に要約を書いておきます。
・クローズドであれば、いろんな意味でコントロールしやすい割に、持ち込みゲーム数も多く、参加者の満足度は高かった
・参加者が絞られるため供給過多にはなり、その点は不満の声があったが、擬似貨幣を作るなど解決策は考えられる
・予約は大変好評。
・オークションは盛り上がりにくいのでイベントとしては微妙。

クローズドという形式について

一概に、クローズドといっても色々やり方はあるかと思いますが、僕が主催したものは、
・参加チケットを持つ人のみが入場可能
・参加チケットの入手は販売ブース取った人に主催から10枚渡したものをブース責任者が配るのみ
という形でした。

要は、主催の知り合いと、知り合いの知り合いのみ参加しているボードゲームフリーマーケットでした。

結果からいえば、参加人数を制限でき、かつ、(知り合いに迷惑をかけることになるので)目立ったトラブルも発生せずで、スタッフを少なくしつつボドゲフリマをやりたいという思惑は無事達成できました。
参加者を絞ることで、会場の盛り上がり不足を心配していましたが、少なくとも事務局席から見てる分には十分に盛り上がっていましたし、開催後に頂いた感想でも、殆どの方から満足した、楽しかったという意見をいただけました。

持ち込まれるゲーム数が少なかったらどうしようとも思っていましたが、それも杞憂で、全体で1000個以上のゲームが売られていました。
これは、参加者全員が「販売も購入もできる」という形式でしたし、当初、ブース参加者を募る際から繰り返しお伝えしていたせいか、ブースの中心として何十個も持ち込まれる方以外にも、数個ずつでも持ち込まれる方がたくさんいらしたことが大きいと思います。

今回のフリマの規模は、17ブース、参加者144人でした。たぶんブースとった人だけがゲームを持ち込んで販売するという形だと、もっともっと販売ゲーム数は少なかったでしょう。自分は売るものがないと仰ってる人でも1,2個は売るものがあったようですし。
大々的にフリーマーケット!というわけではなく、知り合い同士が集まってゲームを売りあうという気軽さが結果、たくさんのゲームを持ち込んでいただけたのではないかと思います。

いくつかのボードゲームフリマで、参加者に対して売り物が少ない(あっという間に売り切れる)という話を聞いたことがありますが、1個からでも気楽に売れる仕組みを作れれば、多少は解決するかもしれません。

ただ、クローズドという形式で、チケット数が限られていると、誘う側からすれば誘いたくても誘えない人もでてきますし、誘われる側は誘われたいのに誘われないということがでてきます。これが不和の原因になるのは全く望ましくないので、今回は、「誘って欲しい」と自分から言わないでくれと事前に言ったりしてました(効果の程はさておき)。意図的だろうとなかろうと、チケットくれ、誘ってくれと自分から言って断れた時のことを思うと耐えられんので…。

供給過多について

フリマ当日も言われてましたし、頂いた感想でも一番多かった不満、問題点は、参加者数に対して販売ゲーム数が多すぎたということです。
各参加者が数個ずつでも売り物を持ってきてくれたと前述しましたが、逆に言えば、各参加者が平均して5個持ち込んでいたとしたら、5個ずつ買わないと売り物が余るということになります。今回だと全参加者が7,8個買えば、供給と需要があってたんですが、全員がその数買うとかありえないですねw。

そのため、今回のような全参加者が販売も購入もできるという形にすると起こりがちな状況ですし、主催側からすれば、需要過多で売り物が少ないよりも、今回のような供給過多の方が多くの参加者の方には喜んでいただけるはずなので、必ずしも問題点ともいえないのですが、売ろうと思って参加されている方からすれば大問題だと思いますので、解決案を考えてみました。

今回、供給過多、供給過多と色々な方に言われましたが、何に対して供給が方なのかというと、参加者に対してというよりも、参加者が持っている財布に対してです(あとは、棚の空きスペースという方もいらっしゃいましたがw)。

フリマの終盤はかなりの値下げも行われて、モノによっては中古ゲーム屋の買取価格よりも安くなってましたが、それでも無い袖は振れないということで売れ行きは芳しくなかったようです。開始直後の財布の余裕がある時を逃すと、値段に関わらずあまり売れなくなってました。
その中盤以降の停滞感と値下げしても売れないというところから、供給過多という話がでたのだと思うのですが、閉場間近にいくつかのブース間で行われていた「ゲームの交換」というのがその解決のヒントになるかと思います。

金がなくて買えない(人によっては棚に空きがないから売り物が売れないと買えない)という状況の打開策として、各ブースだけで使える擬似貨幣を発行するというのがどうかなーと。
わかりやすく言うと、僕が他ブースで買い物をする際に、僕のブースの買い物で使える「ひだり円」を使うわけです。3000ひだり円で何かしらゲームを買ったとすると、自分のブースの3000円分のゲームをそのひだり円と引き換えられる。で、もし最後まで使われなかった擬似貨幣があれば、発行元が買い取りすると。
ゲームそのものの交換は手間もかかるし、なによりかさ張るので擬似紙幣で代用できないかなと思った次第です。

もしくは、単純に持ち込みゲームを増やさずに財布を増やせば良いので、販売はできない、購入専門の参加者を増やすという、通常のフリーマーケットに近づければ解決はすると思います。頂いた感想でも開始後、何時間か経ったらオープンにしても良いのではという話もありました。
割合とかはおいといて、少しでもクローズドを解くのであれば、参加者の整理やトラブル対応などのスタッフは必要になるはずなので、スタッフをもちっと増やせるならという解決案ではあります。

予約について

今回のフリマでは、販売開始前の1時間を予約時間として、各参加者が1つずつ、各ブースに並んでいるゲームを予約できるようにしました(同ゲームに複数者から予約が入った場合は抽選)。
これに対して、ほとんどの感想で良かった!という声を頂きました。

主催側すると、開幕ダッシュの防止、スタッフ削減、トラブル防止の一環だったのですが、フリーマーケットで初めて落ち着いて売られている品を見ることが出来たとか、1つしか予約できないので何を予約して何を開幕直後に買いに行くか超考えたとか色々と楽しい声を頂きました。
悩みに悩んで、今を逃すとこれを買う機会はない…!と予約したゲームがライバル無しで買えてしまって、予約チケット無駄にしたーという話をいくつか聞いて僕は非常に楽しかったですが。

もちろん何を買うかが一番の目的だと思うのですが、何がどれくらいの価格で売られているのかだけでも、十分に楽しめるものだと思うので、開場30分とか1時間であっという間に品がなくなっちゃうという話を聞くにつけ、クローズドという形式に依らず、どのフリーマーケットでも取り入れても良いのではないかとすら思いました(クローズドでないと、参加者数にキリがないので、どうやってやるんだという話はありそうですけど)。

オークションについて

スタッフは少ないければ、何かしらイベント的なものをやった方がよかろうとオークションをやったわけですが、これは失敗でした。

たくさんの品を出品いただいたり、解説をかってでていただいた方々がいたりと盛り上がりはしましたし、感想でも不満の声はなかったのですが、主催として振り返るにもうやらなくていいかなと。

オークションと聞くと、なんか良い物が出品されて、それを欲しい人が競り合っていく…というような展開が想像されると思いますが、いまはもうそんな展開はほぼあり得ないんですね。
入札する方は”相場”よりも安く買おうとするし、出品する側は”相場”より高く売れるのを期待するんですが、もう情報が出回りすぎていて、入札する側も出品する側も”相場”の感覚が同じなんで、普通にやると出品側が思うよりも値上がりせずにせっかく品を用意してくれた出品側が損をしたようになっちゃうことが多いんでやらんでいいかなと。

特に今回は普通に売られている品すら買う金もないのに、オークションに突っ込む金なんてないわという状況のせいもあったとは思うんですが、数年前ならいざ知らず、海外も含めればもう殆どのゲームが探せば買えるんでオークションに金を突っ込むということは、どこでも変わらないと思いはします。

その他の意見について

大半は供給過多とか予約の話とかに包含される感想が多かったのですが、やはり開場前に来場していた方々のマナーの話はありました。13時開始のフリマに10時前に来る人が何十人もいたのはおもいっきり想定外でしたが、ちゃんと想定しないとダメでしたね。

クローズドという形式ゆえだとは思うのですが、ツイッターなどで名前は知っている、または交流はあっても顔は知らないという方々がお互いに参加していたため、名札をつけたり、どのブースに誰がいるかを公開したり、せっかくなので交流のある方に挨拶する、交流を広げる機会を作るということができたらよかったという意見もいくつかありました。全員が全員というと難しいでしょうが、主催側が何かしら用意して、やりたい人だけが交流できるような仕組みは作ったほうが良いなと思いました。

あとは細かい話で、予め販売ゲーム数などを確認して、それにあわせて開場の余剰スペースを使って販売スペースの調整などしてたのは評価いただけてました。

最後に。あるブースで机の横も販売スペースにしてた件では、たくさんの感想で、あれはダメだろという話を頂きました。該当ブースには設営時にダメだよと伝えてはいたのですが、始まってからは僕は見て回れませんでしたし、みなさんさんはみなさんで文句つけるのもなあと気を使ってくださって、なし崩し的に最後まで修正されることはありませんでした。本来はトラブル事案として取り扱うべきで、参加いただいた方々には申し訳ない気持ちでいっぱいです。

というところで、関東でのボドゲフリマ、クローズドでもオープンでも来年以降活性化することを願いつつ〆です。

何故複数回遊んでから感想を書けと言われるの?

※こう思いました。と言うだけなので落ちはありません。

たまにというか定期的にというか、1回プレイしただけの“感想”(もっぱらレビューと呼ばれる)で、そのゲームの面白い/つまらないに言及することが良くないというような話がでてきます。まあ、きっちりした評論であれば1回だけというのは問題かもしれませんが、書き手がいっぱしの批評家であるとか、選ばれたひとしか公表できないならともかく、そこらのおっさん、おばちゃん、おにいちゃん、おねえちゃんの感想に文句をつけてもはじまらないですし、そもそも、情報の取捨選択や解釈は読み手に任されるのだから、読み手が書き手の文章自体や嗜好の傾向をふまえて判断すれば済む話くらいに僕は思ってます。まあ、逆に同じゲーマーが言ってることだから口コミ効果で参考にされやすいてのもあるんでしょうけど。

(余談:なので、僕は書き手は好きなこと書けばいいじゃんと思いますし、書いてるつもりです。ただ、誤解を与えないよう書き手は根拠も明確にする必要はあるかと思いますが。
例えば、「チケットトゥライドはつまらない → チケットトゥライドはカードの運で決まるのでつまらない → チケットトゥライドは列車カードは山札からしか引けない。よって、カードの運で決まるのでつまらない。」ここまで書いてくれれば、ルール間違ってるだけじゃん!てわかりますよね)

・では何故悪く言われるのか。

これはボードゲームは多人数で遊ぶものだからじゃないかと思ってます。仮に4人そろって、その4人とも書き手の感想を鵜呑みにしないひと達だったとしても、ひとりが「これは○○という理由でつまらないという感想をみたよ。僕もルールを読んだ限り、その通りだと思うから別のにしよう」と言われたらまず立卓しません。立てる方も面白くないと言われているものを立卓するのは気分がよくないのだと思います。

しかし、これは書き手の遊んだ回数には関係なく、単に「悪い評価を書かれたことによる悪い点」と何ら変わりありません。

・そもそも感想を書くことと遊んだ回数は関係しているのか

ボードゲーム以外の例えば本や映画、絵画等の美術品、料理まで広げてもいいかと思いますが、それらの感想やレビューを考えてみます。
果たして数回読まれた、見た、食べた上で書かれているものは全体の何割程度あるでしょうか。僕の感覚ですが、ほとんどないのではないかと思います。あまり1回で判断するなという意見が出ているのはあまり聞いたことがありません。

では、何故ボードゲームでは言われるのか?

色々な戦術をとるなど、複数回遊ばないと面白さがわからないからでしょうか。ルールを間違っている可能性があるからでしょうか。面子によって面白さが変わるからでしょうか。プレイ人数によって面白さが変わるからでしょうか。

とりあえず思いつくところはこれくらいですが、これらってボードゲームだからというわけではないんですよね。

本でいえば読み返せば、初回は気付かなかった伏線に気付くこともあるでしょうし、最後を知ってるからが故の登場人物の感情を追えるということもあるでしょう。解釈を間違っていることもあるでしょう。読んだ時の自分や周りの環境で感じ方は変わるでしょう。

基本的に初回と二回目以降で感じ方が変わらないものなんてないんです。

では、何が理由?と考えたのですが、「ボードゲームは楽しめるものしか望まれていない」のが原因なのかなと。

本や映画は極端に言えば、楽しくなくても良く、悲しくなろうが、萌えしかなかろうが、多種多様な作りや受け止め方が許容されています。笑える作品もあって良いし、知的好奇心を満足させるだけの作品であってもよいし、延々とキャラクター・俳優さんを鑑賞するだけの作品があっても良いです。受け手もあいつが楽しいと言ったからといって、自分も同じとは限らない(むしろ評論家がつまらない作品というものには、単純でアホウなエンターテイメントとして大変受けるものもありますし、逆に評論家だけが面白いと言ってるものもザラにあります)ということが受け入れられているのかなと。

一方で我らがボードゲームですが、このゲーム、すごい泣けていいんだよ!とか言われてるのは聞いたことがありませんし、想像もちと難しいです。つまるところ、面白いか、面白くないかの2つしか評価軸が基本的にありません(一部にはつまらければつまらないほど…!という悪食の方もいますが)。
そんな中で、「面白くない、つまらない」という話がでれば気にします。

結局のところ、二択の評価しかないものなので、簡単に(1回しか遊ばずに)結論を出すなということなのかなと。前述の通り、その結論を鵜呑みにする人がいれば遊びづらくなることもあるわけなので。

では、どうすれば良いのかは全く見当もつきませんが、ボードゲームの評価が面白い/つまらないだけでなく、もっとバリエーションがでてくれば、誰がどんなことを言っても受け手もさほど気にしなくなるのではないでしょうか。

ボードゲームのルールって?

最近、色々なところでゲームをしたり、色々なサイトやツイッターでの文章を読んだりした際に、ボードゲームのルールの扱い、それに対する考え方がひとやゲームによって結構違うもんだなと、非常に興味深く思っています。

自分にとっては(そして、おそらく大半のひとにとっても)ルールとは「ボードゲームを楽しむための制約」です。

“楽しむ”というのは、1つは知的好奇心(という表現が妥当かわかりませんが)を満足させる、つまり、うおー、このシステムは素晴らしい!とかいうようなゲームを動かすメカニクス的なものを楽しむこと、2つ目は卓を囲んだ人たちと愉快な時間を過ごすという意味で書いてます。

自分がまず興味深いと思うのは、自分にとってのルールの役割を満たすために、必ずしも作者が規定している正しいルールが適用されている必要はないということです。
僕はおそらくゆるいのでしょうが基本的に、「間違っていたとしても、ゲーム中、全員が同じルールでやっていれば問題ない。ただし、つまらない時を除く」スタンスです。

ルール間違いに気づくのは、その場に同じゲームを別の場所で遊んだことのあるひとがおり、ルールに差分があった時か、ゲームが面白くなかった時か、ゲーム会後、ブログを書く等の何らかの理由でルールを読み返している時くらいでしょう。
ゲーム中に気付くのは面白くない時くらいしかないと思っています。

つまり、余程でないとプレイ中にルール間違いには気付けないということです。では、ルールを間違うことによる弊害って何なんでしょうか。(ひとりがルールを聞いていない、勘違いしているという場合ではなく、その場で共通認識されているルールが誤っている場合の話です)

A.ゲームがつまらない(正しいルールで遊べば正しいはず!というデザイナー性善説に則ってます)
B.ゲームの正しい評価ができない

Aは、まあ、色々とダメージがでかいですが、前述のとおり、ゲームがつまらない際にはルールが疑われます。なので、実際には通しでプレイして、つまらなくて、なおかつ、そのルールが間違っていたというのはあまりないかもしれません。
ただし、これには段階があり、正しいルールで遊ぶことがそのゲームが持っているポテンシャルを出し切ることになるのであれば、ルールを間違っていたため、つまらなくはないが本来の面白さの8割くらいということもありえます。

Bはゲーマーというか、複数ゲームを遊んで何らかの理由で比べたいひと以外には関係のない話です。
ルールを間違えて、ゲームが面白くない時にはAに書いたように気づけるはずなので、Bの場合、ゲーム自体は面白いということになります。

レビューを仕事にしていたりでもしない限りは、ルールを間違っているかどうかよりも、ゲームが面白いかどうかの方が重要だと思いますし、大抵のひとはそうなのではないでしょうか。

そうなると、ルールを間違うことは何が悪いのでしょう。

答えの一つとして、ゲームがより面白くなる機会を逃しているというのはあるでしょうし、作者への敬意も欠けているとは思います。

しかし、そこまで悪いとも思えないんですよねえ。僕は正しいルールで遊ぶというのは、全てのプレイヤーが多少の不満があったとしても、納得して遊ぶためでないかと考えます。
ボードゲームは複数人で遊ぶものですし、面白いの基準はひとそれぞれです。みんなが「こっちの方が面白い」と言いだしてはキリがないので、納得するための方便が“正しいルール”なんじゃないかと。

例えば、おい、それは俺の魚だぜでは、本来のルールであればペンギンは1以上の任意のマスを動かすことができます。しかし、正式ではありませんが、つきあたりか別のペンギンにあたるまで止まれないというバリアントが存在し、それなりに広まっていますし、先日、こちらを正式ルールとインストされている方に会いました。
(僕は移動距離は任意のルールの方が好きですが)よりゲームが面白くなると考えた人が考案し、実際に面白く、納得できる(氷の上ですし)からこそ受入れられているわけで。

その一方で、こういう話もありました。先日、とあるゲームを遊んだ時のことです。そのゲームでは捨て札からもドローすることができました。インスト時には捨て札か山札から1枚ドローしてくださいと伝えていたところ、あるプレイヤーが何の抵抗もなく、捨て札のなかをささっと見て、好きなカードを手札に入れたのです。
その方曰く「山札は何があるかわからないから、好きなカードを探してはいけないのはわかる。だけれども、捨て札はどこに何があるかわかるのだから選んでも良いのではないか」 これがこの方の“納得できるルール”なわけです。しかし、実際には捨て札の山の一番上の1枚をドローするのが“正しいルール”であることを伝え、納得してもらいました。
この方が自分の仲間内でやる時に、どちらのルールでやるかは自由ですし、楽しい方でやればいいわけで。

何が書きたいのかわからなくなってきましたが、最初に書いた「ボードゲームを楽しむための制約」であれば、ルールの正誤にそれほど気を使わなくてもいいし、実際に楽しいゲームができれば良いのではないかと思うわけです。正しいルールはその場に限らず、多くの人が全く同じゲームを行うための手段と割り切るのもひとつの考えではないかと。
一言一句ルールブックの文言通りか気にする真面目な方もちらほらいるようなのですが、楽しむためのツールなんだから気楽にやりゃあえんでないかと思ったので。

最後に余談ですが、上記については、“正しいルール”が求められた際に参照するであろうルール和訳が間違っていないことが前提です。

ある程度経験のある方や英語も読める方は、和訳だけでなく原文ルールもあたるのが当たり前になってはいますが、ボードゲーム歴が浅かったり、英語が堪能ではない場合は、和訳に頼るわけで、その際に和訳自体が間違っていては、その場のメンツが納得できる“正しいルール”が間違っていることになり、目も当てられませんので。

なーんか、最近、和訳が間違っていたせいで評価されていない、不当な評価をされている、プレイ自体することさえ難しいとかいうゲームの話をいくつか聞いたので余談ですが書いてみました。

デザインノート的なもの (「犯人はお前だ!」について)

※以下の記事ではカジタブリッジ製作のゲーム「犯人はお前だ!」のことについて書いていますが、ゲーム自体については特に説明をしていません。興味のある方は、概要説明書当ブログのプレイ記事等ををお読みいただければと思います。

前回の記事からの続きで、推理する対象を機械的にではなく、人為的に作る形式のゲームを作ろうとしたわけですが、最低限、以下の要素はゲームの流れとして出てくるだろうと考えました。

1.謎の提示
2.謎を解くためのヒント(証拠)の入手
3.推理
4.推理の発表と評価

「犯人はお前だ!」を作るにあたっては、それぞれの要素を考えることでゲームの全体像、詳細部分を決めていっています。

1.謎の提示について

まず、「1.謎の提示」ですが、これについては推理の対象を人為的に作る=参加者のうちのいずれかが謎となる(いずれかの正体を当てる)形式としたので、特に書くことはありません。

多少語弊もありますが、謎となるプレイヤーを以降、犯人役と呼びます。

2.謎を解くためのヒント(証拠)の入手について

「犯人はお前だ!」と同じような作りのゲームである人狼は、基本的にゲームの仕組み的にはノーヒントです。
ヒントを得るために、プレイヤー全員で狼につながるヒントを得るための仕組み、ルールを作る必要があります(※1)。ですので、慣れてる人たちにとっては非常にシステマチックに、慣れていない人たちにとっては何をすればよいのかわからない、そういう状況になります。

※1 占い師などの能力でヒントを得る手段は提供されていますが、そのヒントは占い師本人以外にとっては、真実かどうかの判断はできません。占い師の情報以外の真贋を判断する時と同様に、占い師の行動に関するルール(例えば占い師は必ず初日にカミングアウト&その後も指定されたひとだけを占う等)が真贋の判断に必要になります。

つまり、ゲームへの熟練度と個人のコミュニケーション力が推理ゲームとしてのポイントである「ヒントの入手」に大きく依存しています。
これでは、ヒントが得られず、結果として推理ゲームにならなかったという場合も想定され、好ましくありません(実際、初心者は手引きがないとつらいゲームです)。

よって、ゲームの仕組み的に推理の元になる情報(ヒント)を手に入れる仕組みが必要と考えました。

ただし、ゲームとして謎の全体の枠組みを提供しない(クルーのように真相の候補が決まっていない)のであれば、ヒントを出すことができるのは謎を知ることのできる人物、犯人役自身、もしくは、ゲームマスター(ゲームに参加せずに犯人役を知ることができる人物)だけです。
ゲームマスターを作るのは最低プレイ人数を増やすことになりますし、ゲームマスターも面白くはあるのですが、プレイヤーと別ゲームをやっているのに近い(同じ楽しさは享受できない)ので、ゲームマスターを作ることは無しとしました。

では、犯人役自身がヒントを出すわけですが、ヒントを出すには、犯人が何かに干渉し、それを他プレイヤーの元に公開する必要があります。無論、ヒントを出すことで犯人がばれるのは最悪なので、干渉か公開、または両方を隠すことになります。
隠す方法として色々と試してみましたが、「犯人はお前だ!」で採用している“カードをテーブル下でまわして、犯人だけがカードを裏返す”が最も、何かを調べている感覚、プレイヤー間の緊張感があり、かつ、上手く隠すことができる方法だと判断しました。他には人狼の夜のようにプレイヤーが顔を伏せている間に犯人が何かを行う、投票のようにプレイヤー全員が(例えば)カードを提示してシャッフルしたあとに公開する等を試しています。

ただし、いずれの方法も隠すことの失敗=犯人役がばれる、もしくは虚偽の情報が公開されることになるので、推理を主眼としている場合、ゲーム全体が壊れます。これは非常にリスキーです。そのため、ゲームを通して三回ほどが限界と判断しました。もちろん、ゲームが壊れないヒントの出し方はあるかもしれませんが、カードを裏返す方法の持つ捜査している感などのメリットを取りました。
また、これだけが理由ではないのですが、ゲームが壊れることも考慮してプレイ時間は短めにすることにしました。

(このゲームが壊れると言うのも逆手にとって、倒叙もの(コロンボや古畑任三郎のような犯人がわかっていて、探偵役が犯行のほころびから謎を解く形式)みたいにして、犯人役のミスを誘発または待つ…みたいなゲームも突き詰めれば形になるかもしれませんが、別の話なので割愛します)

3.推理について

ゲーム中に得られたヒントを元に推理を行った場合、100%正解できるようなデザインにすべきでしょうか。僕の答えはNOです。

推理に主眼をおいたゲームとしても、推理小説としても、推理が一番の花形になるべきであり、プレイヤーに推理した!と思わせるには一定以上の不確定要素と、プレイヤー自身の主観が入る余地がないといけません(前回の記事にも書きましたが、推理小説の推理は誰がやっても同じ結論になるような単なる論理的な思考ではないと考えています)。

そのため、ゲーム中に得られるヒントは直接、犯人役が誰かということを示すものではなく、間接的に示すものということにしました。

「犯人はお前だ!」では、当てるべき対象を犯人役と事件の真相(被害者、犯行現場、凶器)の2つに分け、ゲームの仕組みとしては事件の真相に関するヒントだけが手に入るようにし、一方で、犯人役を当てるためのヒントは犯人が真相を隠そうとする行動自体とすることで、犯人役の正体に関するヒントは直接的ではなくしました。

ヒントを間接的にしたことにより、ヒントの多寡と推理の正解率は比例しなくなりました(※2)。そのため、ヒントを手に入れる機会を必要以上に増やしていません。なので、犯人役の正体につながるヒントが得られる機会が非常に少なくなる場合もあるゲームデザインになってしまいました。

※2 客観的かつ直接的なヒントが得られない状況では、バイアスが非常に大きな働きをします。バイアスなどの話を持ち出さなくとも、あなたがAさんが犯人だと考えている時にBさん自身が「俺、犯人だよ」と言ったとします。自分で犯人だと言っているのですからBさんは犯人なのでしょう。しかし、あなたはAさんを怪しんでおり、かつ、客観的、直接的にBさんが犯人であることを示すヒント(証拠)はありません。この時、あなたはどちらを犯人として指摘しますか?という話です。

多すぎるヒントはいらないとはいえ、ヒントがないのも困ります。ゲームの仕組みで手に入るヒントは犯人役ではなく真相を当てるためのヒントなので、犯人役が怪しまれるような行動を取らなければ犯人役を当てるヒント自体が出てこなくなります。そういう状況で犯人役が積極的に行動する理由はありません。

それを回避するためには、どうすれば良いでしょうか。木の葉を隠すなら森の中、死体を隠すなら○○の中の考え方とは逆ですが、木の葉は森以外にあれば目立つという考え方もできるでしょう。つまり、犯人役以外が積極的に行動する状況を作れば、犯人役も怪しまれないために積極的に行動する理由が生まれます。

一見理屈は通ってますが完璧にアホの考えです。

では、どうすれば犯人役以外が積極的に行動するか? いくつか方法はあると思いますが、当時、チバテレビで太陽に○えろ!の再放送を見ていたこともあり、刑事ごっこの中にプレイヤーを入れると方法を取りました。
これがニックネーム制誕生の理由です。(というのは半分で、僕の嗜好としてゲームの重い軽いに関係なく、黙々と遊ぶよりも盛り上がって遊ぶべきだという考えも理由になってはいますが)

4.推理の発表と評価について

ゲームの作りの関係上、犯人役以外が結託すると犯人役はわかりやすくなりますし、犯人役があからさまに仲間外れになって面白くなくなります。そのため、個人戦として、犯人を当てる、真相を当てる/隠すことによって、個人にポイントが入ると言う形式にしました。
これに伴い、個人の思惑も反映できる仕組み(捜査結果を隠す)もゲームに取り入れ、単純に思惑が計れないようになりました。

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僕が「犯人はお前だ!」をデザインした時に考えたことは大体以上の内容になります。もう前回の記事からお分かりかと思いますが、僕がは、推理(小説)のロールプレイをどうやって面白いボードゲーム、カードゲームに落とし込むかという考え方をしています。
そのため、普通のゲームデザインとは考え方や優先度がおかしいことになっている部分も多々あるかと思います。

次回のゲームマーケットには理由があって参加できないので、このような文章を書いてみたわけですが、自分の中で思った以上に収穫もありましたし、改めて自分の考えを整理してみて、ボードゲーム的な面白さをゲームに入れようとする努力や考えが抜けているなと思い知りました。

あとは、コンポーネントに関することも記事になるような内容が書けるようなら書きたいと思います。

デザインノート的なもの (推理小説好きにとっての推理ゲームって何なのか)

ゲームマーケット2011春&秋とサークル参加をしてきて、思っていたところを書いてみます。

そもそも、何故同人ゲームを作ろうとしたのかというと、ボードゲームにはまって数年経ちますが自分の思うところの「推理ゲーム」がなかったからです。

では、「推理ゲーム」って何でしょうか。

“推理”ゲームと言うからには少なくとも推理に主眼が置かれたものでしょう。“推理”を抽象化したりデフォルメしたものがゲームの中心になっているボードゲームが「推理ゲーム」になるはずです。

そうなると、次は“推理”とは何か?です。ここで1つの式をあげます。

1+X=2

上記の式でX=1を当てるのが推理であるとボードゲームでは言われることが多いです。クルーしかり、スコットランドヤードしかり、ドメモしかりです。いやいや、答えである2を当てるのが推理ゲームでしょうと言う人もいるでしょうが、答えの枠組みは用意されているものから外れることはないため、ゲーム中に提示された情報をもとに消し込みを行って導出しているのはあくまでXです(と僕は考えています)。

しかし、一定以上の推理(小説)好きにとっては、推理とはトリックや犯行のロジックを解き明かすものであって欲しいと思っているはずです(少なくとも僕や僕の周りの推理小説好きの方々はそうです)。
ゲーム上の駆け引きで、情報がそろう前に回答する、答えを導出するという場合もありますが、基本的に誰がやっても同じ回答になるものは単なる論理的な思考であって、推理(小説)好きのいうところの推理ではありません。
本格ミステリでいうところの論理のアクロバットが欲しいわけです。

※念のため書きますが、論理的思考で仮定を検証するような、正解を絞っていくようなゲームは「推理ゲーム」ではないとは言っていません。推理小説好きにとっては、違和感がある、もしくはもっとより良い形の「推理ゲーム」があるのではないかということです。

じゃあ、「トリック」を抽象化してボードゲームにすれば「推理ゲーム」になるんじゃね?という話になりますが、ボードゲームであるからには繰り返し遊べなければなりません(シャーロック・ホームズ10の怪事件は、ドイツゲーム大賞とってますが例外でしょう)。そして、パターンを覚えれば解けるというゲームでは、やはりXの値を求めるゲームと言うことになるので、何かを組み合わせて「トリック」を作るというのも(推理小説好きのいう)推理ではないということなります。
では、パターン化されない仕組みで機械的に「トリック」を生成できるかと言うと、それもまた難しいです。

これを解決するための方法として以下の2つを考えました。

A.ボードゲームにする対象を「トリック」ではなくす。
B.“機械的に”ではなく、“人為的に”「トリック」を作る。

A.ボードゲームにする対象を「トリック」ではなくす

 上記の1+X=2の式で言うなら+や=をゲーム化する方法を考えてみます。
推理小説に関して昔から言われていることで「後期クイーン的問題」というのがあります。名探偵が正解とした推理をその作品の中では本当かどうか証明することはできないというやつです。ぶっちゃけて言えば、別に反論がでないから正しいとかではなく、名探偵なんだから推理は正しくて当然というか正しいようにできているとも言えます。
少年漫画の主人公がどんな理不尽な成長をしようとも最終的に勝利するのは主人公だからであり、少女漫画で憧れの男性から他の女性ではなく主人公が選ばれるのも主人公だからである、そしてそれは正しいこと、良いことであると言うのに似てます。

つまり、式中の+や=のどこかに“Xを解くのは名探偵である”という要素が入っている(のが推理小説)と考えて、具体化した1つの形が「Tの悲劇」になります。
実際のところがどうなのかはさておき、最終的な推理の結果が真実であるという考え方をゲームに落としてみました。

ただ、推理ゲームというと誤解を受けるだろうと思ってはいましたし、気をつけようとも思っていたのですが、が、ゲームマーケット2011春のカタログには思いっきり推理ゲームと書いてしまっていて、気づいた時には愕然としました。あれは本当に失敗でした・・・。(当日のあおりとかでは、推理小説風とかそんな表現をしていました)
それよりも「Tの悲劇」は“推理”って何なのか?という問題よりも先に、ボードゲームとしての練りこみの甘さや説明書のまずさなどがあり、たくさんのお叱りの声を受けました。ただ、推理小説の雰囲気はあるという声もいただいたので、方法論の方向性はあっていた部分もあったと思っています。

“推理”ゲームって何なのか、どうゲームに落とし込むべきなのかという問題とあわせて、再考しているところです。
あくまでボードゲームを作るのであれば、「これは推理ゲームじゃない」といわれても、そのあとに「でも、ゲームとしては面白い」と続くようなものを考えなければならないわけですから。
まあ、「Tの悲劇」も作るときは色々と考えてはいたのですが、いま考え直していることもあって詳しくは割愛します。

B.“機械的に”ではなく、“人為的に”「トリック」を作る

機械的に作ることができないのであれば、作ることの出来る人間に作ってもらいましょうというのがBの考え方です。
「トリック」と書くと大仰ですが、要はひとの思考自体を謎として、その人の思考を追う過程を“推理”とする形式です。とはいっても、大概のボードゲームでは「人の手を読む」として普通にやることでもあるので、その“推理”を主眼に置いたゲームを「推理ゲーム」として作ろうと考えました。
つまり、言い方を悪くすると人にぶんなげてしまうというわけで、大体の形式としては、人狼やレジスタンスのようにプレイヤーの中に敵陣営のひとがいて、それを推理するという形を選びました。

僕は、人狼やレジスタンスでは、参加者が推理の元となる情報を手に入れる枠組みをプレイヤー内で作り上げなければほぼノーヒントになってしまうところが、推理ゲームとしては好きではありませんでした。
まあ、人狼は疑心暗鬼やちょっとしたことから生まれる誤解、勘に基づくインチキ推理で相手陣営を追い詰めていく感じ等々を楽しむ、どちらかというとコミュニケーションゲームの色合いが強いようにも思ってますが(だから、推理力のある人よりもコミュニケーション力のある人が得意)。

では、ゲームの仕組み的に推理の元になる情報を手に入れることができる仕組みを作ろうと考え始めたゲーム。これが「犯人はお前だ!」になります。

犯人はお前だ!については、別記事にします。というわけで続きます。
プロフィール

Author:ひだり
川崎市で相方や友人たちとボドゲやってます。

オールタイムベストは、
・グローリー・トゥ・ローマ
・バサリ
・インペリアル
・アフター・ザ・フラッド
・ゴッズプレイグラウンド
・HABA社製品 全般

推理ゲーム好きだけど↑には入ってないという
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